山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第160回

2013.09.27

nt毛利家130927小早川隆景_書状 これは、毛利輝元の叔父小早川隆景の書状です。「将軍動座」とありますから、足利義昭を備後国鞆(広島県福山市)に迎え、織田信長との対決に踏み切った後のものです。木津川合戦など緒戦の華々しい勝利に、毛利氏の威勢は高まり、元就や隆元を知らない上杉謙信や武田勝頼のような遠国の大名からも便りが届けられたことを、この上ない名誉だと述べています。

 

しかし同時に、主戦場の反対側、九州や山口では、毛利氏の縁類でもあった市川経教や杉重良が、織田信長と呼応した大友宗麟によって調略されたのか、毛利氏に反旗を翻していました。余りにも無謀な離反だったらしく、いずれもすぐ鎮圧されましたが、隆景自身は、この小さな領国のほころびを、きわめて危険と感じていたようです。この先大変な戦争になることを予想し、「消えようとして蝋燭が光を増す」ことに例えて、今が一番大事だと訴え、これほど栄えても毛利家が滅んでしまえば意味がないと言い切っています。

 

これは、隆景が、輝元の母尾崎局(おざきのつぼね)の菩提寺妙寿寺の住職に出した書状です。隆景は妙寿寺に対し、妙寿寺の口から輝元に再三忠告してほしいと伝えています。

 

将軍を戴いた天下に臨む戦いで華々しい勝利をおさめた。偉大な祖父の元就ですらなしえなかった偉業に、弱冠二十六歳の輝元はのぼせ上がっていたのでしょうか。あるいは、隆景から直接忠告すると、角が立つと考えたのでしょうか。隆景は、この書状を妙寿寺に託し、輝元の信頼篤い、母の菩提寺妙寿寺をつうじて、輝元を諫めようとしたのです。

 

老練な叔父二人が、年若い輝元を支える「毛利両川体制」とは、「三本の矢」の話にあるような、単純な話ではありません。どんな名家でも下手をすれば滅亡しかねない厳しい戦国の世に、「生まれながらの大名」輝元をいかに一人前にし、次代の毛利家を託すか、元春・隆景兄弟は、亡き父元就から課された難しい宿題に挑んでいたのです。