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第159回

2013.09.20

毛利家130920_毛利隆元自筆書状案yo 毛利輝元は、永禄六年(一五六三)十歳の時に、宍戸隆家(ししどたかいえ)の長女と婚約します。彼女の母は、祖父毛利元就の娘ですから、輝元はいとこを妻に迎えたことになります。

 

当時毛利氏は、北では出雲の戦国大名尼子氏と、西では豊後の戦国大名大友宗麟と激しく争っていました。しかも大内氏を打倒したとはいえ、一挙に拡大した領国経営は必ずしも順調というわけでもありませんでした。そのような状況の下、輝元の祖父元就と父隆元は、相談の上、戦国大名家や、京都の公家ではなく、安芸国人のうち最も信頼していた同盟者宍戸隆家の娘を、将来の毛利家当主輝元と結婚させて、毛利氏中枢の結束を固めようとしたのです。

 

写真は、このとき隆元から宍戸隆家に対し、婚約を申し入れた書状の下書きです。隆元の文案に、父の元就が、文字を抹消したり、修正案や注意書きを行間に記しています。隆元の下書きを元就が添削したのでしょう。

 

面白いのは、冒頭の部分で隆元が、輝元のことを「愚息」と記したのに対して元就は、その文字を塗り消し、「これは除いた方がよい」と記しています。隆元は、妹婿でもある宍戸隆家との縁組みによる同盟強化を実現するため、隆家に敬意を表して、輝元のことを「愚息」と記したのでしょうが、元就にしてみれば、たとえ相手が重要な同盟者の宍戸氏であったとしても、戦国大名となった毛利家の御曹司を「愚息」と呼ぶことはよくないと考えたのでしょう。

 

安芸の一国人から戦国大名にのし上がった毛利元就と隆元の親子は、なお「傍輩」とも呼んでいた安芸の国人たちに、色々と気を遣わなくてはならないことが多かったようです。しかし元就は、「愚息」の二文字を削除させるなど、あの手この手で孫の輝元を、周囲に「戦国大名毛利氏」の御曹司として認知させようとしていました。この元就の薫陶を受けた輝元は、文字通り「生まれながらの戦国大名」として成長していくことになるのです。