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第158回

2013.09.13

nt毛利家130913_毛利輝元 この写真の人物は、もう皆さんお馴染みだと思いますが、毛利輝元(てるもと)です。全国的にも知られた大名の一人ですが、この人ほど後世の評価が分かれる人も珍しいと思います。

 

やはり、百万石の大領国を失い、わずか二か国に削減されてしまった関ヶ原合戦の失策が大きく響いているのでしょうか。小説やドラマなどでは、名将毛利元就の孫に生まれながら、祖父の築いた大領国を維持できなかった、あるいは天下分け目の決戦で、その行方を左右できる立場にありながら何もできなかった凡庸な三代目、という描かれ方が多いように思われます。

 

しかし、それはあまりにも輝元にとっては厳しい評価のようにも思われます。輝元が生きた時代は、中世から近世への大転換期でした。甲斐の武田氏に代表されるように、鎌倉以来続いてきた名門の武家ですら、一歩道を誤ると滅亡の憂き目にあう時代でした。そのなかで、輝元は、おそらく全国で唯一、信長・秀吉・家康三代の天下人と、真正面から戦いながら、生き残った大名でした。しかも、削減されたとはいえ、防長二か国をまるまる領有し続け、子息の秀就の代には、三十六万石余という大封を認められています。

 

関ヶ原後の毛利家は、明らかに敗軍の将としての出発でした。戦国以来、とにかく生き残ること、勝つことだけを目標に、かなり無理な領国経営を行っていましたから、そうした領国統治の「ツケ」は、むしろ防長移封後一挙に吹き出した感があります。加えて、かつては格下であったにもかかわらず、関ヶ原後一挙に大封を得た近隣諸大名との交際や、一度は敵対した徳川家との交渉など、輝元の行く手には一筋縄ではいかない大問題が山積していたのです。

 

輝元の、関ヶ原後四半世紀の人生は、この難題を切り抜けることに費やされました。結果として毛利家は、江戸時代三百年を生き延び、幕末期には再び雄藩として立ち上がるのですが、そこを強調するならば、この輝元という人物、なかなかの人物だとは思いませんか?