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第157回

2013.09.06

毛利家130906豊臣秀吉遺言状yo この写真は、豊臣秀吉が徳川家康をはじめとする五大老に宛てた遺言状です。何度も何度も繰り返し、残しゆく幼い秀頼の行く末を頼むくだりが特によく知られ、ドラマなどでもしばしば再現されていますから、皆さんもよくご存じの一品だと思います。

 

この遺言が、秀吉の死後まもなく、覇権を狙う徳川家康によって反古にされ、それに抵抗した石田三成らが、毛利輝元を総大将に担ぎ上げて挙兵したことはよく知られているとおりです。

 

このときの輝元の行動に関しては、同時代資料が少なく、必ずしも明らかにされているわけではありません。三成らの挙兵計画を知った輝元の従兄弟吉川広家は、輝元が三成らに与することを当初阻止しようとしたようですが、輝元の行動が早く、間に合わなかったようです。

 

秀吉晩年の朝鮮侵略戦争に、大軍を率いて参戦した毛利氏は、多大な物的人的損耗を被っていました。また秀吉死去の前年、政権を支えていた叔父の小早川隆景(こばやかわたかかげ)・毛利元清(もときよ)両名を、輝元は相次いで亡くしています。

 

さら輝元は、実子秀就(ひでなり)が生まれたため、一時的に養子としていた元清の子秀元にしかるべき所領を与えるべく、なけなしの所領をかき集めることに苦労していました。この一件は、従兄弟の広家を移封する案や、祖父の元就以来扱いに苦慮していた益田・吉見両氏を移封する案が持ち上がるなど、領国全体を混乱のるつぼに陥れるほどの大問題でした。

 

秀吉の死に続く、反家康派の挙兵は、こうした領国の混乱がようやく落ち着こうとした矢先に起きた大事件でした。元清の死後、最も頼りにしていた相談相手の叔父毛利元康に輝元が宛てた手紙によると、三成らがことあるごとに、家康の対抗馬として輝元を利用していた様子を読み取ることができます。領国の現状と、天下の趨勢、その中での毛利家のあり方、これらを輝元がどのように見て、考えていたのか。このあたりが輝元の行動を理解する鍵になりそうです。