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第154回

2013.08.09

nt毛利家130809鎌倉将軍家政所下文 写真は、大変珍しい古文書です。どこが珍しいかというと、毛利家の祖にあたる大江広元(おおえのひろもと)が署判しているのです。大江広元が活躍したのは、鎌倉時代初期、今から八百年以上も昔のことですから、その時代の文書が残っていること自体珍しいのです。

 

この古文書は、「政所下文(まんどころくだしぶみ)」と呼び、源頼朝の家政や所領などを管理する役所「政所」が、頼朝の名で発行したものです。藤原為資という人物に周防国内で所領を与えるという内容ですが、地名・人物とも毛利家には縁がなく、元々は毛利家の伝来品でなく、江戸時代に入り、大江広元ゆかりの書として毛利家が収集したもののようです。

 

広元が、政所の長「別当(べっとう)」として、鎌倉幕府の初政において重要な諸施策を実施したことはよく知られています。ところがこの文書をよく見てください。上段真ん中に署判している別当の広元は、「大江」ではなく、「前因幡守中原朝臣」と署名しています。実は元々広元は中原広元(なかはらのひろもと)と名乗っていました。中原氏は、大江氏と同様朝廷の実務官僚を務める家柄ですが、「吾妻鏡」に載せられた広元の改姓記事によると、広元は中原広季という人物の養子として育てられたようですが、実家の大江氏の衰微を歎き、朝廷の許しを得て「大江朝臣」に改姓したとされています。この辺りの経緯は、関連する記録が欠け、さらに大江氏や中原氏の系図も錯綜しているため、あまり定かではありません。

 

上杉和彦氏によると、広元が源頼朝に招かれた背景としては、すでに頼朝と親交をもち、早くから都を出て関東に下っていた広元の兄中原親能(ちかよし)の影響があるとされています。

 

中原氏と広元の縁がなければ、鎌倉御家人としての大江広元も誕生せず、鎌倉以来の血筋を誇る毛利氏の誕生もなかったわけですから、広元の出自をはっきりさせることはとても大切ですが、資料が乏しく、今なお毛利家の謎の一つとしか言いようがないのです。