山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

お問い合わせはこちら

第153回

2013.08.02

毛利家130802鞭_大江広元所用yo 写真は、毛利家の祖である大江広元(おおえのひろもと)が用いたとされる鞭です。何かの木に籐を巻き付け、その上から漆を塗ったもののようです。古くは見えますが、鎌倉時代の鞭は現存例が少なく、実際に広元が使用したかどうかは確認しようがありません。ただ付属の書付によると、子孫の毛利元就がこの鞭を見出し、写真の鞭袋を調製の上、氏神の宮崎八幡宮に奉納したことは間違いないようですから、元就は少なくとも広元の鞭だと信じていたようです。

 

『古今著聞集(こきんちょもんじゅう)』という本には、広元の祖とされる大江匡房(おおえのまさふさ)が、八幡太郎とよばれ無双の武将とされた源義家(みなもとのよしいえ)に兵法を教え、東北地方における後三年の役において危機を回避した話が載せられています。

 

紀伝道(きでんどう)の博士家として、いわゆる学問の家として知られる大江氏ですが、元就の時代には、匡房の話にも現れているように、兵法の家としても認知されていたようです。前回紹介した承久の乱での積極的な大江広元の言動は、朝敵とされることを恐れ、上洛して朝廷を討つことを逡巡する御家人に対して、貴族らしからぬ猛々しい判断といえます。こうした伝説的な活動も、兵法の家としての大江氏に対するイメージと密接に関わっているようです。

 

毛利元就は、ことある度に、ことさらに自らを大江氏の流れであると強調しています。こうした主張は、自らを由緒正しい鎌倉御家人であると主張し、毛利家による支配の正当性を強調しようとしたものと考えられます。それとともに、自らが大江氏の兵法を受け継ぐ武将であることを内外に強調することで、武将としての元就への信頼度を高め、敵を威圧し、味方を結束させようとする目的もあったのではないかと思われるのです。

 

智将として知られる毛利元就ですが、こうした人心掌握や家臣団の統合など、心理面における活動についてはまだまだ明らかでないことが多いのです。