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第152回

2013.07.26

nt毛利家130726大江広元像 写真は、毛利家の祖である大江広元(おおえのひろもと)の肖像画です。江戸時代末期に大庭学僊(おおばがくせん)という絵師が描いたものですから、想像で描いたものでしょう。

 

大江広元といえば、後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣を発した際、即刻軍勢を上洛させよと進言したことで知られています。これを受けて「尼将軍」として知られている北条政子が、御家人たちに源頼朝の恩義を説き、朝敵となることに尻込みする彼らを奮い立たせたことは、「吾妻鏡」という鎌倉幕府の歴史書に記され、承久の乱の一番の見せ場とされています。

 

これは、大江広元と北条氏が、源頼朝死後の幕政を二人三脚で支えていたことを、如実に物語るエピソードとして、よく知られています。しかし、これらの記述、現在では、あまりはっきりした根拠のあるものでない、もしくは、かなり脚色されていると考えられています。

 

ただ、大江広元と北条氏との友好関係は、事実だったようです。大江広元は、元々は朝廷の中級官人でしたが、源頼朝に登用され、政所(まんどころ)の別当(べっとう)という役職につきました。関東にさしたる縁もない広元がそこまで出世できたのは、広元の行政手腕の賜といえますが、なによりも重要であったのは、広元の能力を信じ、彼を引き立てた頼朝の個人的な信頼でした。一方北条氏もまた、政子が頼朝の正室となったことから、鎌倉幕府の重鎮にまでのし上がった一族でした。そうでなければ、並みいる関東武士の中で、伊豆国の一豪族に過ぎなかった北条氏がここまで台頭することはなかったに違いありません。

 

ともに頼朝の個人的な信頼で引き立てられた彼らが、頼朝死後もなお、草創期の政権内で権力を保つためには、さまざまな面での協力が必要だったのでしょう。北条氏と広元の良好な関係は、子たちの代にも引き継がれます。なかでも毛利荘(もうりのしょう)を引き継ぎ、「毛利」と称した四男季光(すえみつ)は、北条氏の信頼も篤く、幕府内で重きを成していました。