山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第149回

2013.07.05

毛利家130705秋草図中啓yo この写真は、中啓という扇子の一種です。中啓はわざと少しゆがめられた骨に紙を貼るため、閉じても完全には閉じきれず、先が広がったように見えますので、「末広(扇)」とも呼ばれていました。貴族の平服、のちにはややくだけた礼服とされた直衣(のうし)を着用する際、笏(しゃく)のかわりに持つようになったとされます。

 

この中啓は、片方の面に、すすきや萩などの秋の草花を、もう片方の面には、雲間に浮かぶ満月を描いています。おそらくは、仲秋の時期に用いるためあつらえられたのでしょう。

 

この中啓は、箱に付された貼紙によると、明治二年(一八六九)三月六日に参内した毛利敬親が、明治天皇から下賜されたもののようです。

 

この時期、敬親は、体調がすぐれなかったようですが、朝廷に対して永の暇を乞い、家督を養子の毛利元徳に譲る許可を得るため、あえて上洛したようです。この願いは朝廷に聞き届けられ、長年の労をねぎらうため、天皇から下賜されたのが、この中啓だったようです。

 

敬親の時代、長州(萩・山口)藩は、激動のまっただ中にありました。前代より続く財政の危機やうち続く自然災害に、迫り来る外国勢力との武力衝突、一時期は江戸幕府ともするどく対立し、御所への発砲を理由に朝敵とされ、全国諸藩を相手とした勝ち目の薄い戦いにも追い込まれ、あわや滅亡かという危機にも見舞われました。

 

養子として毛利家の家督を継いだ敬親にとって、先祖代々続く毛利家を確かに継承することは、おそらく何にもまして重要な使命だと感じていたことでしょう。その敬親にとって、この三月六日は、激動から守り抜いた毛利家を、無事元徳に譲り渡すことが公式に認められた、特別な日でした。したがってこの中啓は、単なる朝廷からの下賜品にとどまらず、敬親にとっては何物にも代え難い宝物と認識されたに相違ありません。