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第148回

2013.06.28

毛利家130628白鷺図yo この写真は既に紹介済みですが、毛利隆元が描いた白鷺の絵です。岩の描き方や水流の線など、隆元が雪舟流を学んだことは間違いないようです。隆元は、天文六年(一五三七)から数年間、人質として山口で暮らしています。絵画は、その頃に学んだものと考えられています。

 

同時に隆元は、山口での滞在中、幾度か大内氏の館にも参上しています。また陶氏をはじめ、大内氏の家臣団ともこの時期に交際している様子は、「山口滞留日記」(「毛利家文書」三九七)などから知ることができます。今回注目したいのは、天野氏や阿曽沼氏など、隆元と同様に山口に遣わされていた安芸国衆たちからも、隆元に対して音物(いんもつ)が届けられていることです。

 

たとえば、志芳(しわ)荘東村(現東広島市)を本拠とする天野氏の場合、毛利氏とは峠一つ二つを隔てた程度の近い存在です。しかし、そのわりには両者の間に交渉は乏しく、元就が家督を継いだとき、大内義興の仲介によって、ようやく盟約を結んだ程度の間柄でした。

 

しかし、天文九年(一五四〇)九月、尼子晴久が、毛利氏の本拠郡山城を攻撃すると、天野興定は、毛利氏への加勢として、自ら郡山に入城しました。元就は、興定へ感謝するとともに、ともに息子を山口に差し出した一蓮托生の仲と訴え、今後の協力を約束しています。

 

この合戦以降、毛利氏と天野氏、特に隆元と、興定の子で隆元と同時期に人質として山口に滞在していた天野隆綱は、急速に接近し、兄弟契約まで交わしています。つづく厳島合戦においても隆綱は、真っ先に毛利氏への味方を表明し、天野家断絶の危機に際しては、隆元の弟千虎丸(元政)が天野家を継承し、やがて一門右田毛利家へと展開していきます。

 

天野氏の場合、隆元と隆綱が顔見知りであったことが、のちの関係強化に一定の役割を果たしたようです。しかし、毛利隆元が山口でどのように人脈を築いたのか、そしてそれが、毛利氏の発展にどう影響したのか、わからないことは多く、まだまだ解明の余地がありそうです。