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第146回

2013.06.14

nt毛利家130614小袖・南天霞網 写真は、明治時代の女性衣装です。袖口の部分が狭くふさがっていることから、小袖(こそで)とよばれているものです。小袖は、元々は貴族らの装束の下に着る、いわゆる下着でしたが、軽装の進んだ室町時代に、武家の正装とされました。武家女性の服飾に関する規定が細かく定められた江戸時代には、着用する場面や、装飾などにも厳密な規定が加えられたようです。

 

明治以後、服飾の近代化が進むと、小袖は廃れ、いわゆる着物(和服)に替わったとされます。しかしその一方で、保守的な人々の間では、相変わらず小袖が用いられていたようです。

 

この着物は、縮緬に刺繍と染めで南天と霞網を描き、その周囲に金茶色の糸で、戯れ遊ぶ雀を描いたものです。かなり厚く中綿が詰められていること、たわわに実った南天が描かれていることから、まだ寒さが残る春の初めに用いられた衣装のようです。

 

背中と袖・胸の五か所には、三つ沢瀉(おもだか)紋が白絵で描かれています。この紋章は、毛利家の家紋である沢瀉に手を加えた、いわゆる替わり沢瀉紋の一種ですが、明治二十六年(一八九三)に、公家の三条家から、長州(山口)藩の知藩事を務めた毛利元徳の長男元昭(もとあきら)に嫁いだ毛利美佐子の個人紋として使用されていたようです。

 

綸子(りんず)よりは格が劣るとされる縮緬地であること、個人紋である三つ沢瀉紋が描かれていることなど、公的な場面で着用する、いわゆる正式な礼服として作られたものではなく、何か私的な空間で着用するためのものだったようです。この衣装に、どれほど彼女の好みや意向が反映されていたかは定かにできませんが、毛利家の奥向、少なくとも私的な空間では、女性たちは、江戸時代さながらの衣装を着て過ごしていたようです。大正五年(一九一六)に建てられた旧毛利家本邸が、純和風で作られたことといい、毛利家は、やや保守的な趣向の持ち主であったのかもしれません。