山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

お問い合わせはこちら

第141回

2013.05.10

130510_mouri写真は、前回紹介した「刀絵図」を拡大したものです。押形(おしがた)とよばれる、刀の形状だけでなく、刃文(はもん)などまで正確に写し取った紙を貼り付け、その周囲に、それぞれの刀の特徴や見どころを、短い文で紹介していることがわかります。この「刀絵図」、この押形が、実物の刀剣に準じるものとして高く評価され、重要文化財に指定されているのです。

 

ところでこの「刀絵図」には、あまり知られていませんが、同じく本阿弥光徳(ほんあみこうとく)が記した「銘尽(めいづくし)」という表題の冊子が添えられています。奥書に、文禄三年(一五九四)とありますから、「刀絵図」の書写と同時に記されたものだとわかります。

 

こちらには、押形などはなく、すべて文字ばかりで、鎌倉時代以降室町時代にかけての、全国的に著名な刀工や刀工集団を、地域別に分けて書き上げたものです。各集団に属する有名な刀工の名を挙げ、特にすぐれた人物に関しては、作風や特徴、見どころなども簡潔に記されています。こちらは重要文化財に指定されてはいませんが、本来、「刀絵図」の鑑賞手引書として、本阿弥光徳が毛利輝元のために書いたものであることは明らかです。

 

さて、毛利輝元が刀剣を熱心に集めていたとか、刀にうるさいいわゆる目利きであったという話は、これまで聞いたことがありません。では、輝元は何のためにこの「刀絵図」を所望し、わざわざ本阿弥光徳に作らせたのでしょうか。

 

この時期輝元は、豊臣秀吉配下の大名として、度々上洛することもありました。また秀吉の下で、これまでの戦国大名段階とはまた違い、交際範囲も広くなったようです。時には刀談義に加わることもあったのではないでしょうか。なんといってもこのときの輝元は、中国八か国の太守でした。刀に関する知識も、当然に教養として必要だったことでしょう。大胆に推測すれば、この「刀絵図」は、輝元の社交上の必要から作られたと考えるのはいかがでしょうか。