山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

お問い合わせはこちら

第140回

2013.04.26

130426_mouri写真は、「刀絵図」といいます。文禄三年(一五九四)に毛利輝元の求めに応じて、豊臣秀吉の刀剣鑑定所を勤めていた本阿弥光徳(ほんあみこうとく)が記したものです。秀吉の蔵刀のうち、南北朝期以前の名工五十一人が作った名刀を選び、押形(おしがた)とよばれる原寸大の写を張り付けて、それぞれの刀の名称や特徴・見どころを記したものです。一見するととても地味な作品に見えますが、秀吉愛刀の作例集として、既に失われた名刀も多く記されていることから、日本刀剣史上の貴重な記録として重要文化財に指定されています。

 

本能寺の変後、いち早く毛利氏と和睦することに成功した秀吉は、山崎の戦いで明智光秀を打倒し、織田家中の第一人者にのし上がります。その翌年には、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を打倒し、織田信長の後継者の地位を確保したことはよく知られています。その間毛利氏は、秀吉に対して好意的中立を保ち続け、結果として秀吉の勝利に貢献しました。また、秀吉の四国攻めや九州攻めにおいて毛利氏は、大軍を率いて長曽我部氏や島津氏と戦いました。さらに、秀吉の小田原攻めにおいては、輝元自ら後詰めを務め、秀吉留守中の畿内・東海地方の安定に努め、間接的ではありましたが、秀吉の天下統一に大きく貢献しました。

 

この「刀絵図」が作成された翌文禄四年(一五九五)、秀吉は後継者として跡を託そうとした関白豊臣秀次一家を処罰し、新たな体制の確立を模索します。その際、膝下の最有力大名徳川家康に東国諸大名の取次を命じ、毛利輝元・小早川隆景に西国諸大名の取次を務めるよう命じました。これは、それまでの毛利氏の働きを秀吉が高く評価したものと思われます。

 

「刀絵図」に記された刀剣はいずれも、文字どおり秀吉秘蔵の名刀でしたが、毛利輝元のたっての願いに応じて、秀吉が書写することを許したものと思われます。長年にわたる毛利氏の働きに、秀吉が好意を以て応じた結果、この作品は生まれたのでしょう。