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第139回

2013.04.19

130419_mouri毛利博物館では、企画展「端午(たんご)」が始まりました。「端午」とは、本来五月初めの午(うま)の日を祝う中国の風習だったようです。ただ日本では、武士の世になると、武を尊ぶ日と考えられるようになり、江戸幕府によって五節句の一つに定められたといいます。

 

これは、毛利元就の嫡男隆元が記した馬術に関する書です。冒頭に「庭乗事」と記され、御殿の庭先に植えられた木の周りをどのように回るか、線で表したものです。おそらく将軍や大名など貴人の御前で、馬術を披露する際の作法を記したものなのでしょう。

 

武家が生まれた平安時代、武家は「弓馬の輩」と呼ばれていました。これは、武芸、なかでも騎馬と弓射の術を以て、朝廷・貴族に奉仕する武家の性格を一言で示す言葉といえます。

 

戦闘に携わり、謀反人や犯罪者を討ち取るなど、血にまみれることの多かった当時の武家は、死や血などの穢れを恐れる貴族から見れば、必要悪、蔑みの対象でしかありませんでした。

 

その武家が、貴族たちに一目置かれ、彼らの引き立てによって晴れの舞台に立つことができる日、その一つこそが、五月五日・六日の天皇御前における騎射(うまゆみ)と競馬(くらべうま)だったのです。摂関家など最上級貴族は、自らの権威を誇示し、ライバルに差をつけるため、自らの息のかかった武士をこの行事に出場させました。当時まだ身分の低かった武家にとって、ここでの成功は、上級貴族に自らの存在を示し、彼らの引き立てによって中央の武官として出世する糸口でもあったのです。

 

隆元の時代、武芸を以て武家が、貴族に引き立てられて出世するような時代ではありませんでしたが、騎射は上級武家の嗜みとして、長く大切にされたようです。また、都の文化華やかなりし山口では、御屋形様大内氏の御前で、故実にしたがって馬術をうまく披露することは、毛利氏の名を挙げることにもつながると考え、隆元はこの書をしたためたのでしょう。