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第138回

2013.04.12

130412_mouriまだ四月ですが、毛利博物館では、一足先に企画展「端午(たんご)」が始まります。写真は、この企画展の中心となる展示品、少年用の甲冑「色々威小具足(いろいろおどしこぐそく)」です。さまざまな特徴から、江戸時代前期の作だと推測されていますが、所用者は不明です。いずれかの若殿様が、端午の祝いで着たものなのでしょうか。現段階では、あれこれ想像をめぐらせるほかありません。

 

さて「端午」といえば、家を継ぐべき男子の健やかな成長を祈るまつりとして、よろいかぶとを飾ったり、鯉のぼりを揚げるなど、江戸時代にほぼ今のような姿になったようです。

 

ところで、戦国時代以前、「家を継ぐ」のは、必ずしも男子でなかったことをご存じでしょうか。たとえば、安芸国の国衆天野家を継いだ、毛利元就の七男元政の場合、女子だけで男子が生まれなかった天野元定の願いにより、入り婿として天野家に入ることになります。しかし、元定の遺言は、家督そのものは元定の息女が継ぎ、天野家歴代の家臣たちが彼女を支えることだったようで、元就もそれに同意の上、七男元政を婿として送り出したようです。

 

このような女性家督の事例は、中世において決して珍しいことではありませんでした。子女たちの婚姻は、すべて家の繁栄と存続が最大の目的とされていた時代ですから、家同士の利害が相反するようになると、離縁も珍しいことではありませんでした。残念ながら離縁となった場合、所領や領主権などの諸財産をめぐって夫婦で争う事態も起こりえました。したがって、財産が、血の繋がりのない婿の手に渡ってしまうことを予防するために、女性であっても血のつながった我が娘に家督を譲与することは、中世の人たちにとって、当然のことでした。

 

入り婿となった男性は、あくまでも婚家の存続と繁栄のために働くことが求められたのです。「家」を背負った男女が、ひたすら家のために行動する、これが近代以前の家庭の特徴でした。