山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第137回

2013.04.05

先日開花したばかりの桜も、はや盛りをすぎ、お花見をご予定の方はお早めになさったほうが良さそうです。散りゆく桜とともに、毛利博物館の企画展「お雛さま」もまもなく終了します。

 

130405_mouri この写真は、展示品の一つ、「渡金箱(わたしがねばこ)」と「渡金(わたしがね)」です。お歯黒を塗るとき、盥(たらい)の上に渡して、歯黒道具を載せることから、この名がつけられたようです。これも八重姫婚礼道具の一つですから、これまでに何度も紹介したとおり、箱は漆塗り、竹菱に梅の文様が描かれています。渡金そのものは二つあり、一つは透かし彫りに毛利家の家紋「沢瀉(おもだか)」が、一つには毛彫りで松や鶴などめでたい文様が彫り表されています。

 

一見しただけで金色の、まちがいなく「さすがは大名家の婚礼道具!」という品の一つです。

 

これは、天保十年(一八三九)の八重姫の輿入れに際して作られたものですが、この八重姫の婚礼、実現までにはひと山もふた山も乗り越えるべき困難があったようです。

 

その一つが、天保七年(一八三六)に起きた、実父毛利斉煕・養父斉元・兄斉広の相次ぐ死でした。彼らの法要と、新藩主敬親への家督継承が確定した天保八年(一八三七)になると、八重姫の婚礼準備は再開されたようですが、今度は、未曽有の財政難が立ちはだかったのです。

 

大名家の子女は、婚礼が近づくと、花嫁修業のため江戸で暮らすことが通例だったようです。八重姫は長らく萩で暮らしていたので、江戸の流儀や諸大名・幕府との社交術など、藩主正室としての知識を身につける必要があったのでしょう。当時の大名家では、藩主子女の転居に際しては、居住する御殿の新築や改築が当たり前だったようです。八重姫の江戸転居に際しては、費用不足のため、御殿全体の新築は取りやめ、御祝いの間と寝所のみの建て替えですませたようですが、やはり最小限の新改築は行われたようです。結婚は現代でも費用のかかる大変な作業ですが、大名家のお姫様の婚礼は、現代では想像できない規模の物入りだったようです。