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第133回

2013.03.08

130308_mouriこの写真は、前回紹介した「合貝(あわせがい)」を収める「貝桶(かいおけ)」です。「合貝」が、江戸時代には、遊具としてではなく、貞節を象徴するものとされていたことは、既に紹介したとおりです。したがって、この貝桶は、大名家の婚礼道具の中では、最も重要視され、婚家へ婚礼道具を運び込む際には、行列の先頭に位置づけられたそうです。

 

この貝桶は、黒漆の上に金で竹を菱形に編んだ竹菱文様を地文様とし、菱形の内には金銀の配合を変え、様々な色調の蒔絵で梅花を描いています。

 

この貝桶は、長州(萩)藩十代藩主毛利斉煕(なりひろ)の五女八重姫(やえひめ)の婚礼道具の一つです。、婚礼道具として作られたものですから、その特徴としての家紋が描かれています。当然その家紋は、八重姫を象徴する毛利家の「沢瀉(おもだか)」紋です。

 

さて八重姫は、天保十年(一八三九)に、長州藩の支藩徳山藩の藩主毛利元蕃(もとみつ)に嫁ぎました。この婚礼は、そもそも徳山毛利家の側から申し出て成立したようです。彼女の婚礼に関する記録を読むと、天保四年(一八三三)四月の末日に、時の徳山毛利家当主であった広鎮が、当時はまだ世子であった嫡男徳太郎(のちの元蕃)の室として八重姫を迎えたいと、八重姫の父斉煕に内々に願い出たようです。

 

斉煕はこれを承諾したようですが、既に斉煕は藩主を退き、江戸の郊外葛飾にて隠居暮らしの身でしたから、斉煕付の当役梨羽煕昌(なしばなりまさ)に命じて、上屋敷の桜田邸にいた十一代藩主斉元(なりもと)の許にこの縁談話を伝えたようです。斉元はこの縁談に特に異議を挟まず、九代藩主毛利斉房の室貞操院(ていそういん)も特に反対しなかったため、この縁組は本決まりとなり、梨羽ら当役から、藩の最高首脳陣である加判役にこの話が伝えられました。その後、幕府の了承を得て、この縁談が確定しますが、それはともかくとして、この縁談は終始八重姫の父斉煕主導で進められたようです。