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第129回

2013.02.08

130208_mouri毛利博物館では、春恒例の企画展「お雛さま」が始まりました。

 

今回展示の「次郎左衛門雛」は、根拠はないものの、徳川将軍家から輿入れした和姫(かずひめ)所用とされているものです。本来であれば、毛利家と徳川家の絆を固く結びつけるはずでしたが、和姫がわずか十八歳で亡くなったことは、前回紹介したとおりです。

 

将軍の実子が毛利家に嫁いだ例は、和姫ただ一人ですが、長州(萩)藩の歴代藩主には、けっこう徳川家からお姫さまがやってきています。たとえば、初代毛利秀就(ひでなり)の正室喜佐姫(きさひめ)は、越前福井の城主であった結城秀康の娘です。秀康は徳川家康の次男ですから、喜佐姫は家康の孫にあたる、まさしく正真正銘徳川家の女性でした。

 

喜佐姫は毛利家に嫁ぐにあたり、将軍徳川秀忠(家康の三男)の養女として輿入れしたとされていますが、秀就は徳川家の婿とみなされたらしく、徳川家の親族格として「松平長門守」と名のることを許されました。したがって江戸時代、毛利宗家の当主と、その跡継ぎである世子は、少なくとも公的な場においては、「毛利」ではなく、「松平」と名のっていたのです。

 

秀就と喜佐姫の結婚は、関ヶ原合戦で対立した毛利・徳川両家の親睦を回復し、毛利氏を徳川国家の一大名として、しっかりとつなぎ止める重要な一大事でした。秀就は急死しますが、その子綱広が幼少であるにもかかわらず、毛利家は防長二国を寸土たりとも削られることなく相続が許されました。山本博文氏によると、それには、喜佐姫やその弟松平直政(松江藩主)の尽力があったとされています。元服前の幼少の嫡子を残して藩主が死去し、藩政が混乱でもすれば改易、もしくは減転封もあり得たこの当時、毛利家に対する幕府の対応は寛大でした。

 

分割などされず、毛利家が防長二国をまるまる領有し続けたことが、現在の山口県につながるのですから、秀就と喜佐姫の結婚は、現在の私たちにも大きな影響を与えているといえます。