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第128回

2013.02.01

130201_mouri1春はまだ先のようですが、毛利博物館では一足早く企画展「お雛さま」が始まります。

 

写真は今回展示するお雛さま「次郎左衛門雛(じろうざえもんびな)」です。約三〇pほどもある大型の、丸顔が特徴の愛らしいお雛さまです。江戸時代の後半に雛屋次郎左衛門という人が考案したことから、こう呼ばれているようです。

 

特に確たる根拠はありませんが、伝承では、文政十二年(一八二九)、のちに長州(萩)藩の十二代藩主となる毛利斉広(なりとお)に嫁いだ和姫(かずひめ)のものとされています。

 

和姫は、江戸幕府の十一代将軍徳川家斉の娘として、文化十年(一八一三)に江戸城で生まれました。将軍家の姫君だったのです。将軍家の婿となった見返りも兼ねてか、斉広は結婚の翌文政十三年(一八三〇)、藩主毛利斉元の世子(せいし)として従四位下侍従(じじゅう)に任じられています。残念なことに、この年和姫は、わずか齢十八で亡くなりましたので、徳川家の毛利家との関係は、特にそれまで以上に深くなることはありませんでした。

 

藩主正室は、とりわけ藩主の死後、子世代や孫世代を束ねる強い権限を持っていました。また実家との関わりも強く持ち続けたようです。子女の婚姻や養子を迎えることに関しても、彼女らの同意を得ることが重要だったようですし、時には政務にも意見することもあったようです。実際、斉広の母法鏡院(三津姫)は、子女の婚姻や法要等に関しても、現藩主にかなり強い調子で意見していますし、実家の鳥取池田家の家督継承に関しても意見していたようです。

 

家斉の多くの子たちは、和姫同様に各有力大名家に嫁いだり養子として迎えられました。その意味では、江戸末期の有力外様大名は、みな親戚のようなものでした。その関係は、幕末のあらゆる政局に影響を及ぼしていました。歴史に「もしも?」はあり得ませんが、毛利家の場合も和姫が長命であったならば、幕末、徳川家との関係はどのように展開したのでしょうか。