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第127回

2013.01.25

130125_mouriこれは、江戸中期の茶人川上不白(ふはく)が描いた柳の絵です。先にも紹介しましたが、長州(萩)藩の七代藩主毛利重就(しげたか)は、不白を茶の湯の師としていました。

 

不白は、紀州(和歌山)藩の付家老として、新宮に居を構えた水野氏の家臣の家に生まれました。その後、紀州藩茶道を務めていた表千家七代如心斎に入門。頭角を顕し、江戸に出て千家流の茶の湯を関東に広めたとされます。

 

不白の門人を記した「茶人系譜」「茶人家譜」によると、不白の門人は三百名を超え、上は皇族・大名から町人まで多彩な広がりを見せていたようです。不白は、その師如心斎らと千家流の重要な稽古法である七事式を定め、稽古の質と効率を高めました。こうした教育法の刷新とともに、身分を問わず幅広く門戸を開いたことで、千家流が関東に広まったとされます。

 

また不白は、出身地新宮水野家の茶道も務めるなど、故郷紀州との関わりを終生持ち続けたようです。紀州藩から徳川宗家を継ぎ八代将軍となった徳川吉宗が、紀州より多くの家臣を引き連れ、吉宗の子家重、孫家治時代においても紀州出身者が、幕府内で重きを成したことはよく知られています。不白もまたこうした人脈に連なっていたらしく、不白の門弟の中には、元をたどれば紀州出身で、当時飛ぶ鳥を落とす権勢を誇っていた老中田沼意次も含まれています。

 

不白の門弟には、重就だけでなく、薩摩(鹿児島)藩の島津重豪(しげひで)や土佐(高知)藩の山内豊雍(とよちか)など有力外様大名も多く名を連ねています。彼らのうちには、田沼のような幕府中枢へのつてを求め不白の門人となった者がいたことはまちがいありません。

 

文化と政治が渾然一体となっていた前近代、重就の茶の湯をただの趣味と見なすことは適切ではありません。重就にとって、ひいては長州藩にとって、重就の不白入門がいかなる意味を持っていたのか、今後考えてみたいと思います。