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第126回

2013.01.18

nt毛利家131213伝統の正月飾りこれは、既に何度か紹介していますが、毛利家の「正月飾り」です。左隅に置かれているのが、「御佳例盃(ごかれいさかずき)」といい、かつて重臣の福原貞俊(ふくばらさだとし)が、この盃になみなみとつがれた酒を一気に飲み干した、といういわれを持つ盃です。

 

福原家はそもそも、南北朝時代に毛利宗家から分かれた毛利一族です。江戸時代には、いわゆる永代家老として、一門六家に次ぐ高い地位を占めていました。元就以前に分かれた他の一族が一般家臣とされたのに対し、福原家のみ高い地位を与えられたのはなぜでしょう。

 

直接の要因は、毛利元就の母が福原家出身であったことだと思われます。さらに、親族による協力を重視した元就が、従兄弟の子福原貞俊に、若年の輝元(元就の孫)の補佐を依頼したこと、貞俊の孫で江戸初期に当主となった福原広俊が、輝元の信任厚く、萩城築城における対幕府交渉で功績を挙げたことなどで、福原家の地位は固まったと考えられます。

 

そもそも元就の母は、なぜ同じ毛利一族である福原家から迎えられたのでしょうか。

 

南北朝から室町前期における武士の家は、必ずしも惣領家を中心に結束していたわけではありませんでした。惣領家から分かれた庶子家は、それぞれ自らの家を守り、発展させるため、その時々の情勢に応じ、惣領家や他の庶子家と協力したり、反発することもあったのです。特に毛利氏ではこうした傾向が強く、応永二十六年(一四一九)には、庶子家により惣領家の居城郡山城が攻撃されています。このときは、周囲の国人領主たちの仲介により、惣領家は危機を脱していますが、この時代の惣領家は、常に存続の危機にさらされていたようです。

 

そのような情勢下にあって、福原家は一貫して惣領家に協力的だったようです。元就の母は、惣領家と福原家の同盟の証として、惣領家に嫁いできたのです。福原家の高い家格は、毛利宗家への三百年におよぶ長い長い協力の積み重ねあってのものだったのです。