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第125回

2013.01.11

130111_mouriこれは、古萩の茶碗です。納箱の蓋裏には「防長国主大膳大夫重就戯焼」と記されており、長州(萩)藩の第七代藩主毛利重就(しげたか)が、戯れに作ったものだったようです。

 

花の文様を錆絵(さびえ)で描いたものですが、さらっとした筆遣いで、いかにも素人が戯れに描いた感じが強くします。また、この時代の萩茶碗に絵付が施されたものはとても珍しいとされ、その意味でも戯れ半分でこしらえた「戯焼」だったのかも知れません。

 

重就が茶道に熱心であったことは周知のことです。江戸千家の祖となった川上不白(ふはく)に師事し、詳しくその教えを得るために、わざわざ他流の茶人であった藩の茶堂竹田休和に、不白の下に弟子入りさせ、千家流の茶の湯を学ばせているほどです。不白にとっても、重就は貴重な弟子であったらしく、香川正一氏の『英雲公と防府』によると、わざわざ自ら「花月楼」とよばれる茶室の差図を献上し、重就にこの茶室を造ることを認めています。現在毛利博物館には、不白自筆の「花月」の額が残されています。おそらくこれは、重就の花月楼に掲げるため、不白がわざわざ筆をとったものと思われます。

 

花月楼とは、不白自身が表千家七代如心斎・裏千家八代一燈宗室らとともに定めた、茶の湯の精神・技術を磨くための稽古法である七事式のうち、花月之式を行うために、特にあつらえられた茶室だということはよく知られています。この「花月」は、七事式のなかでも最も根幹をなすともいわれ、臨機応変など、茶の湯を深く嗜んでいる者でなくては、その理解は難しいとされますから、不白が重就に期待するところは並々ならぬものがあったのかも知れません。

 

のちに茶人大名などと呼ばれる松平不昧(ふまい)や、井伊直弼(いいなおすけ)のように、重就自身は、茶の湯に関する理論めいたことは一切残していません。しかし、彼が当代一流の文化人であったことは、不白のような茶人との交流からしても、間違いないようです。