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第124回

2013.01.04

130104mouriこの肖像の人物が、支藩長府藩の藩主から長州(萩)藩を継ぎ、様々な改革を実施して、長州藩中興の藩主として知られている毛利重就(しげたか)です。

 

毛利重就については、近年、小川國治氏により、詳細な伝記が記されています。詳しくはそちらをご参照いただきたいのですが、毛利重就は、そもそも長州藩主になるべくして生まれたわけではありませんでした。重就の父は、長府藩主毛利匡広(まさひろ)でしたが、母は側室の性善院、しかも重就の生まれる前の年の享保九年(一七二四)に、兄の師就(もろなり)が、次の藩主となる世子(せいし)として認められたため、順番から言えば重就は、長府藩主にすらなる可能性はなかったといえます。

 

重就と母が同じ兄政苗(まさなり)は、師就から一万石を与えられていますが、これは事情により絶えていた清末藩を再興するための、特別な措置でした。次の兄広定(ひろさだ)は、享保十八年(一七三三)に、右田毛利広信の跡を継ぎ、右田毛利家の当主となっています。また弟の正贇(まさよし)は、伊勢長島藩主増山正武(ましやままさたけ)の跡を継ぎ、長島藩二万石の当主となっています。兄や弟の経歴をみれば、生まれたばかりの重就の将来は、他の大名や家臣の養子となり、一生を終えることができれば上々といったところでした。

 

しかし十一歳の時に兄の師就が急死し、長府藩の藩主となります。さらに二十七歳の時、長州藩主毛利宗広の死という、まさに運命のいたずらによって、重就は長州藩主になったのです。

 

小川氏によると、長府藩主以前の重就に、ほとんど記録はなく、長府藩主時代の重就も、際だって新しい政策を展開した気配はないそうです。その重就が、長州藩主として、宝暦改革と呼ばれる一連の改革を断固たる決意で実施するわけですが、その強い意志や行動力と、新しい事業を思いつく思考力が、どのようにして養われたのか、気になるところです。