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第122回

2012.12.21

121221_mouriこの写真は、永正十年(一五一三)に、毛利元就が記した自筆の起請文(きしょうもん)に記された、おそらく現存最古の元就の署判です。後世の元就の署名や花押(かおう)とは全く異なる筆遣いですが、色々な点から判断して元就の自署に間違いないと思われます。

 

元就は、毛利家当主であった兄の興元(おきもと)を補佐していた老臣、志道広良(しじひろよし)にこの起請文を差し出し、互いに協力して、互いを指導・助言しつつ、主君である興元に忠節を尽くすことを誓っています。後世の元就の活躍を知る我々はつい、「元就が、若造らしからぬ手を打ち、有能な老臣と一致して毛利家を盛り立てた!」と評価したくなるところです。

 

しかし、当時の元就は、元服後間もない十七歳。しかも父や母を早く亡くし、兄興元とも年が離れていないことから、政治・軍略的な教育はろくに受けていなかったはずです。

 

一方、相手の志道広良は、応仁の乱が勃発した応仁元年(一四六七)生まれの四十七歳。応仁の乱以後に毛利家が経験した幾度もの危機を体験し、歴代主君とともに乗りきってきた、文字どおり海千山千の経験豊富な老臣でした。普通に考えるならば、この起請文は、老練な老臣志道広良が、まだ年若い次男坊元就に、この起請文の提出を求めたと考えた方がよさそうです。

 

早くから中央政界の対立に飲み込まれた故に、幼少からの動向がほぼ判っている興元とは異なり、次男に生まれ、毛利家の当主となる予定のなかった元就の青少年期は、謎だらけです。

 

父の弘元が、隠居の場多治比に元就を同行させたのは、将来、弘元の隠居領を元就に相続させ、庶家「多治比殿」として自立させるためだったと思われます。弘元が長命を保ったならば、庶家としての心得や役割を、みっちりと仕込んだに違いありませんが、弘元は、元就十歳の時に、幼い元就を残してこの世を去ります。その後、元就曰く「みなしご」となった元就を、この起請文のように時には厳しく、一人前の武将に育て上げたのが、老臣志道広良だったのです。