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第121回

2012.12.14

121214_mouri 毛利博物館では、新しい企画展「巳年生まれのお殿さま」が始まっています。写真は皆さんご存じの毛利元就です。元就は、明応六年(一四九七)の三月十四日に生まれました。この年は、丁巳(ひのとみ)の巳年ですから、存命していれば、まさしく年男なのです。

 

元就誕生の四年前、明応二年(一四九三)には、元就の兄興元が生まれています。この年、京都では、一〇代将軍足利義稙(あしかがよしたね)が、室町幕府の実権を握っていた九代将軍の母日野富子と、管領(かんれい)細川政元により京都を逐われていました。義稙は、政元と対立していた前管領の畠山政長を頼り、越中国に逃れますが、思うに任せず、明応八年(一四九九)ごろ、やはり長年細川氏と対立していた大内義興を頼って山口にやってくるのです。

 

この義稙を擁した大内氏が、その後、大軍を率いて上洛したことはよく知られています。このとき毛利氏には、大内氏・細川氏双方から協力の要請が届いていました。どちらに味方しても、戦いの最前線に置かれることは明白でしたし、負ける側については御家の一大事でしたから、毛利家当主であった元就の父弘元は、双方への回答を引き延ばしつつ情勢を見守っていました。しかし、双方の催促はかなり厳しく、明応九年(一五〇〇)、責任の所在を曖昧にするためか、まだ若年の嫡男興元に家督を譲り、次男元就とともに猿掛城に隠居するのです。

 

まさに二大勢力が激突しようとする、その狭間で、毛利家の維持に腐心せざるを得なかった弘元・興元父子の心労は相当なものだったのでしょう。弘元が三十九歳、興元も二十四歳の若さでこの世を去ってしまいます。元就の母は既に亡くなっていましたから、「みなしご」となった元就の苦労は、筆舌に尽くしがたいものがあったようです。

 

元就が生まれた年は、毛利家にとって、つかの間の平穏な時期でした。元就の誕生もまた、その平穏をより強く印象づける出来事として、皆から祝福されたに違いありません。