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第116回

2012.11.09

121109_mouriさてこれも、毛利家伝来品の中では、特によく知られているものの一つです。これは「日本国王之印」といい、室町時代に、日本を代表して中国明朝に使者を派遣する際、その使者に持たせる国書に押された印鑑です。もともとは、中国皇帝への服属を表明した室町幕府の三代将軍足利義満に対して、明が与えたものでした。しかし、幕府の権威が衰えると、西国一の守護大名として、明にもその名が知られていた大内氏の手に渡ります。そして、大内氏の滅亡時に、毛利元就が手中に収め、代々毛利家に相伝されて現在に至るのです。

 

足利義満や大内氏がこの印鑑を用いて、いわゆる「勘合貿易」を行っていたことは、どうやら間違いないようです。一方毛利氏は、この印鑑をどのように用いていたのか。それについては、資料が乏しく、はっきりと断言できるほどにはよく分かっていません。

 

元就の時代は、北部九州で大友氏と激しく戦火を交えていました。孫の輝元の時代には、東からやってきた織田信長との交戦で、領国存亡の危機に立たされていましたから、とても九州方面を顧みる余裕などありませんでした。また、豊臣秀吉は大名の海上活動を厳しく監視していました。毛利氏が、明に渡るような大船団を組織できたとはとうてい思えないのです。

 

ところが、毛利輝元の下で、赤間関代官を務めた高洲(高須)家には、明年の商取引を約束した明商人の船旗が残されています。同じく高洲家には、毛利輝元が自ら記した、中国産白糸などの購入リストと思われるメモが残されています。輝元の時代には、赤間関そのものに中国船が渡来し、そこで盛んに貿易が行われていたようです。したがって、毛利氏にとって、遭難などのリスクを負ってまで、大船団を組織して明に渡航する必要はなかったのです。

 

海外に華々しく雄飛したとされる大内氏にくらべ、対外的には地味な印象が拭えない毛利氏ですが、物資の流通という点からすれば、決して国際的でなかったわけではないのです。