山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第106回

2012.08.31

120831_mouri1これは、嘉永二年(一八四九)二月に、藩校明倫館(めいりんかん)を、萩城下江向の地に、拡充移転したとき、藩主毛利敬親の意を受けて発せられた、家老衆から家臣に向けた訓辞です。

 

この明倫館拡張は、幕末の内政危機克服をめざして、藩政改革にあたっていた村田清風の建言によるものとされます。明倫館は、享保四年(一七一九)、五代藩主毛利吉元によって、創設されました。しかし、手狭であり、また医学所や西洋学所など、後年創設された諸施設を一つにまとめるため、この機会に大拡張が行われたようです。

 

江戸時代の武家社会は、一般に、個人の資質や特性とは係わらず、家柄によって務めるべき役職が決められたとされます。確かにそういう側面は強いのですが、それでは社会の変動や経済の動向に対応しつつ、新たな政策を展開することは難しいため、藩校などさまざまな教育機関を設け、新たな人材の育成や発掘に努めた時代でもありました。

 

長州藩の明倫館は、そうした意味においては、設置時期も比較的早く、先駆的な業績とされているようです。またこれまでの研究では、そこで行われていた講義も、二代学頭の山県周南以来、荻生徂徠(おぎゅうそらい)が提唱した徂徠学が中心であったことが、その特徴であったとされます。徂徠学は、人格の形成、すなわち修身を学問の要諦とする朱子学と異なり、古人の説を、統治に必要な実用の学としていかに修得するか、という点に重きを置くところが、最大の特徴だとされます。松平定信による寛政異学の禁以来、幕府の文教政策が朱子学重視に転向すると、さすがの長州藩も朱子学に転じます。それでも、徂徠学がモットーとする実学重視の風潮は、その後も長州藩の学問・政治風土を強く規定したとされています。

 

毛利敬親自身が、どのような学問的な思想を抱いていたか、定かではありません。しかし、こうした藩の風土が、彼の思考に影響を与えたことはまちがいないように思われます。