山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第104回

2012.08.10

毛利家150320半5これは、毛利敬親の跡を継ぎ、版籍奉還後の山口藩知事となった毛利元徳(もとのり)の肖像画です。以前紹介した敬親の肖像画と同じく、写真をもとに、明治時代になって描かれたものらしく、江戸時代の一般的な肖像画にくらべてとても写実的です。

 

この元徳、実子がみな早く亡くなってしまった毛利敬親の後継者として、支藩の徳山毛利家から養子として本藩に迎えられた人物です。安政元年(一八五四)三月には、将軍徳川家定より「定」の字が下されて定広(さだひろ)と名のります。また同時に、従四位下侍従・長門守の位と称号が与えられ、名実ともに敬親の後継者として認められました。

 

当時世子は、常時江戸の藩邸に居住することが義務づけられていました。ただ住めばよいというものではなく、参勤交代などで藩主が留守の際には、藩主に代わって江戸藩邸の差配、幕府との折衝にあたることも多くありました。定広もまた、父である敬親の名代として、老中久世広周(くぜひろちか)に、あの有名な航海遠略策を進言するなど、若年であるにもかかわらず、雄藩長州藩の次期藩主として、幕末の多難な政局に積極的に参加することになります。

 

あるときは、藩主敬親の名代として幕府・朝廷との折衝にあたり、またあるときは、敬親の名代として長州軍を率いて東へ向かうなど、定広(元徳)は、常に最前線で、長州藩の浮沈をかけた一大事に関わってきました。かなり重要な役割を、その局面局面で演じているにもかかわらず、彼の歴史的な評価は、はっきりいってあまり明確ではありません。

 

一つには、定広(元徳)が、敬親の黒子に徹して、忠実にその手足となって働き、独断での目立った行動がないためだと思われます。また一つには、彼もまた敬親と同じく、あまり自己の意見を表に出していないからではないかと思われます。したがって、幕末維新期に彼が果たした役割を明らかにし、正確に歴史的評価を加えることは、まだまだ時間がかかりそうです。