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第103回

2012.08.03

120803_moriさてこの「討幕の密勅(みっちょく)」には、密勅を下された薩摩・長州両藩からの請書(うけしょ)があることを、ご存じでしょうか。請書とは、依頼や命令に対し、確かに引き受けたことを証明する確約書のようなものです。勅とは天皇の命ですから、天皇の命に対して確約書を提出すること自体、現代の私たちからすると奇異な感じがします。ただ、上からの命令に対して、請書を提出すること自体は、この時代、さほど珍しいことではありませんでした。

 

しかしこの請書、やや異例です。宛名に、密勅を発給した中山忠能(ただやす)・三条実愛(さねなる)・中御門(なかのみかど)経之の名があるのは、ごく当たり前ですが、この三人に加えて、岩倉具視(ともみ)の名が書き加えられているのです。

 

藤田覚氏らによると、岩倉具視は、朝廷の復権をめざす、急進派公家の一人であったとされます。岩倉は、通商条約の締結など、朝廷の協力無くしては、もはや統治もなしえない幕府の弱みを利用し、朝廷権力の上昇を目論んだとされます。しかし、それゆえに親幕派とみなされ、尊攘派などの排撃により、朝廷から排除され、京都郊外の岩倉村に蟄居していました。

 

孝明天皇の死により、まだ幼い明治天皇が即位すると、明治天皇の外祖父であった中山忠能が朝廷中枢に復帰します。対幕強硬論者であった忠能は、禁門の変以後排斥されていた対幕強硬派の公家を、次々と復職させます。しかし、岩倉の赦免は遅れ、大政奉還の実現した慶応三年(一八六七)十一月、ようやく岩倉は朝廷に復帰します。したがって、この請書が出された同年十月、岩倉は蟄居中であり、朝廷政務への参加が認められるはずもなかったのでした。

 

長州藩にとって起死回生の一打であった「討幕の密勅」でしたが、蟄居中の岩倉が関与するなど、その正当性や効力は怪しげでした。この密勅は結局不発に終わります。もしこれによって革命が実現した場合、明治維新のような速やかな改革は、はたして実現できたでしょうか。