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第102回

2012.07.27

120727_mouri前回紹介した「討幕の密勅」、これには古来いろいろ問題があると指摘されてきました。

 

その一つが、この命令を受け取った毛利敬親・定広(元徳)父子の肩書です。宛名に注目すると、敬親は「参議」、定広には「左近衛権少将」という官職が付されています。確かに敬親は、多年の功績が認められ、文久三年(一八六三)に朝廷から参議に任じられています。

 

しかし、敬親父子は、禁門の変の罪により、幕府・朝廷から位階官職を剥奪されていました。この罪が払拭され、敬親父子の位階官職が復活するのは、この討幕の密勅が出された二か月後、慶応三年(一八六七)十二月八日に王政復古が実現したときの朝廷の会議によってでした。したがって、この密勅が下された段階での敬親父子は、あくまでも処分中の身の上であり、本来朝廷から「討幕」の命を受けることができる立場ではなかったのです。

 

じつはこの討幕の密勅、朝廷の正式な会議を経て出されたものではありませんでした。後年宮内省が編纂した「岩倉公実記」によると、この密勅を発行した公家の一人、中山忠能(ただやす)が、明治天皇に密かに伺い、この密勅が出されたとされます。この事実を裏付ける史料は一切ないそうですが、中山忠能は、明治天皇の外祖父であり、幼少時には天皇の養育にもあたった、天皇の信頼篤い人物ですから、こうしたやりとりがあった可能性は否定できません。

 

摂関政治の確立以降、天皇の命は、摂政あるいは関白の同意を得た上で出されることが通例でした。藤田覚氏らによると、江戸時代には、禁中並公家諸法度などを通じて、それがより強化され制度化されていたといいます。しかし、野口武彦氏によると、この密勅に関して、摂政である二条斉敬(なりゆき)は、一切関与していなかったとされています。したがってこの密勅は、少なくとも、当時の朝廷の正式な制度であった摂関の諮問を経て出されたものではなく、それゆえに、その正当性、あるいは真偽の問題が常につきまとうことになるのです。