山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

お問い合わせはこちら

第101回

2012.07.20

120720_mouriこれは、「討幕の密勅(みっちょく)」といい、幕末維新期の長州藩を語るとき、必ず出てくるおなじみの史料です。

 

権力をかさにきて、長年国民の困苦をも顧みず悪政を行ってきた徳川慶喜(よしのぶ)を打倒せよという明治天皇の命令を受けた、中山忠能ら三名の公家が、慶応三年(一八六七)十月十四日の日付で、毛利敬親・毛利定広(のちの元徳)父子に宛てて出したものです。

 

この前日、同じく薩摩藩主父子に対して同様の命令が出されています。それは、これより先に、長州藩と薩摩藩が、従来の対立を解消して、軍事的な同盟である薩長同盟を結び、幕府に対抗する道を選んだことを受けてのものでした。

 

八月十八日の政変で京都を追われた長州藩は、勢力挽回のため、軍勢を入京させますが、御所を守備していた薩摩藩や会津藩によって撃退されます。その後、長州藩に対し、厳しい処分を加えようとした幕府は、朝廷に要請して長州藩を朝敵とし、討伐軍を派遣しました。四つの国境で幕府軍を迎え撃った長州藩が、奇兵隊などの活躍によって、いずれの国境でも幕府軍を撃退し、藩を守り抜いたことはよく知られているところです。

 

幕府を撃退し、水面下では薩摩藩との講和も成し遂げた長州藩でしたが、依然朝敵として、時の天皇に反旗を翻した罪が、取り消されたわけではありませんでした。

 

この密勅は、幕府を打倒せよとの指示が示されているだけです。しかし、長州藩にとっては、実質的に朝敵としての罪が取り消された大事な命令だったといえます。またそれだけではなく、この密勅により長州藩は、これまで日本を代表する政府として全国を統治してきた幕府と戦う大義名分を朝廷から与えられ、それまでの幕府との戦いをも正当化することができたのです。この密勅は、まさに長州藩を救う、起死回生の一打だったのです。