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第100回

2012.07.13

120713_mouriこれは毛利敬親自筆の和歌です。内容は、君が代が、長門の海辺の砂を数えても数え切れないのと同じくらい長く永遠に続くことを祝ったものです。「君」とは、天皇のことだと思われますが、この和歌にも示されているように、毛利敬親は勤皇の志篤い藩主でした。

 

長州藩が「天朝への忠節」「幕府への信義」「祖先への孝道」という三つの方針を、藩是三大綱として幕末の政局に向き合ったことはよく知られています。しかし、前回記したように、長州藩の過激な攘夷策は、開国和親やむなしと考える幕府との対立を生んだだけでなく、幕府との協力を第一に考える孝明天皇からさえ拒絶され、一転長州藩は苦境に立たされます。

 

その後、紆余曲折を経て、幕府は長州藩討伐の決意を固め、朝廷もその方針に同意し、長州藩を朝敵として討伐を命じます。これに対する長州藩は「武備恭順」すなわち、朝廷の意には服するものの、幕府が長州藩を攻撃するならば、敢えて自衛自存のため徹底抗戦するという方針で対抗したことはよく知られているところです。

 

敬親は、内心を吐露するような日記類を遺していません。したがって、その本心は推測するしかありませんが、勤皇・佐幕の両立が可能と考えていた敬親にとって、朝廷からも幕府からも敵とみなされるような事態は、全く想定外だったことはまちがいありません。

 

結局、幕府との交渉は不調に終わり、長州藩は朝敵とされ、幕府との全面対決に突入します。このとき薩摩藩の大久保利通が、「非義の勅命は勅命に非ず」と断言し、長州藩討伐には義がないとして、朝廷・幕府の長州追討令を無視し、長州藩との同盟による討幕に舵を切ったことはよく知られています。さすがに敬親は、そこまであからさまに朝廷を非難したりはしませんでしたが、藩是三大綱の三項目め「祖先への孝道」、すなわちこの場面では、毛利家の存続だけは確保すべく、敢えて勅命に従わず、幕府と対決する道を選んだと思われます。