山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第099回

2012.07.06

nt毛利家0704攘夷褒勅これは「攘夷の褒勅(ほうちょく)」とよばれ、長州藩が実行した攘夷を天皇自らが褒め称えたものです。文久三年(一八五三)五月、長州藩は、関門海峡を通航する外国船を砲撃し、外国勢力を排除する攘夷を敢行しました。諸藩に先駆けた攘夷の実行に対し朝廷は、山口に勅使正親町公董(おおぎまちきんただ)を派遣し、この勅書を藩主毛利敬親に与えたのです。

 

藤田覚氏によると、時の孝明天皇は、あくまでも幕府を先頭に、挙国一致での攘夷を期待していたようです。そして、天皇の意を超え、幕府を無視して攘夷に向けて独走していく三条実美(さねとみ)ら、いわゆる尊攘派への不満がつのっていました。こうした天皇の不満を感じ取った中川宮朝彦親王が、将軍後見職の一橋慶喜や京都守護職の会津藩主松平容保(かたもり)、薩摩藩の島津久光らと協力し、尊攘派公家と彼らの後ろ盾であった長州藩を京都から追放した事件が、八月十八日の政変だったとされます。

 

政変後、孝明天皇は、これまで出した詔勅を、三条ら過激な公家に従ったもので、真意ではなかったと取り消しました。どの詔勅が真意か、真意でなかったかは、具体的に指摘されていませんから、必ずしも定かではありません。しかし、過激な尊攘派である三条実美と、その与党である長州藩が追放される政変の流れからすれば、この「攘夷の褒勅」も、真意ではなかったとして、否定された詔勅の一つだと考えなくてはならないように思われます。

 

長州藩の藩是として知られる「朝廷への忠節」「幕府への信義」は、敬親の言葉にしばしば現れます。敬親自身は、他の多くの大名たち同様、真剣にこの藩是を両立させようとしていました。また、できると考えていたようです。敬親自身は、この政変に対する思いを語ってはいません。よって、その真意は測りかねますが、幕府首脳陣による京都からの追放、天皇による詔勅の否定は、勤皇・佐幕を旨とする敬親にとって、耐え難い屈辱であったに相違ありません。