山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第098回

2012.06.29

nt毛利家0515伝奏仰書文久三年(一八六三)三月、将軍としては約二百年ぶりの上洛を果たした徳川家茂(いえもち)は、同年四月、朝廷の圧力に屈して、外国勢力を排除する攘夷(じょうい)の決行を五月十日と定めました。この報せは、直ちに諸大名にも伝えられました。この写真は、幕府と朝廷とを取り次いでいた武家伝奏(ぶけてんそう)の坊城俊克(ぼうじょうとしかつ)から、長州藩に対して伝えられた攘夷決行命令の内容を記した書類です。
この命令に勢いを得た長州藩が、関門海峡を航海する外国船を砲撃し、「攘夷」を実行したことはよく知られています。しかし、幕府が命じていたのは、条約を破棄してのち、日本各地に襲来する艦船があれば、武力で追い払うという程度の、かなり穏当なものでした。井上勝生氏によると、赤間関防衛の総奉行であった毛利能登は、この方針に則り、五月十日夜、海峡航行のアメリカ商船を訊問したそうです。しかし、久坂玄瑞率いる部隊が、横合いから有無をいわせずアメリカ船に向けて発砲した、というのが攘夷戦の実態であったとされています。

 

まだ条約を破棄したわけではない状況下で、有無をいわせず民間船に発砲するという行為は、到底国際的に認められるものではありませんでした。したがって、外国艦船による報復攻撃は当然想定され、場合によっては、日本と諸外国との戦争も起こりえたのです。

 

また、このアメリカ船は、幕府の許可書を携帯し、幕府の水先案内人も乗せていたということですから、この砲撃は、国内的にも決して広く認知されるものではありませんでした。

 

長州藩と一部の過激な攘夷派が沸き立つ一方、幕権を無視された将軍後見職の徳川(一橋)慶喜や、あまりにも過激な攘夷を危惧する孝明天皇が信任を寄せていた中川宮朝彦親王、公武合体を力説して政界での発言力を増そうとしていた薩摩藩などは、長州藩の突出をいぶかしみ、水面下で結束して、長州藩やその与党勢力の追い落としをはかるのです。