山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第097回

2012.06.22

120622_mouriこれは、毛利敬親作とされる萩焼の茶碗です。口の部分がやや厚ぼったくなっていますが、奥行きの深い筒型の茶碗です。やや赤みがかかった桃色の釉薬がかけられ、貫入とよばれる、焼成の際にできる気泡の抜けた穴が全体に見られ、その部分だけ釉薬が薄くなり、見所としての景色をなしている茶碗です。個人的には、なかなかよくできているように思いますが、高台を切り離すときの糸切りが水平にされていないせいか、置いたときにややがたつくなど、やはり専門の窯師ではない、素人の作なのかな、と思わざるを得ないところもあります。

 

毛利敬親が茶の湯に通じていたことはよく知られています。さすがの毛利家といえど、藩主自ら手捏(てづくね)で茶碗を作ったことが確かめられるのは、この敬親と、毛利家中興の藩主とされる毛利重就くらいのものです。現在、毛利博物館には、敬親時代に入手したと思われる茶杓や茶釜などが数多くあります。その上、敬親時代に極(きわめ)と呼ばれる鑑定を行った形跡のある茶道具も多く、歴代藩主のうちでも、敬親はとりわけ茶の湯に熱心であったことは、まちがいないようです。

 

敬親は、身分・格式を問わないとされる茶席を利用して、身分を問わず、地位の低い家臣であっても身近に呼び寄せ、藩の行く末を定めるため、彼らの意見を直接徴したとも言われています。それが事実か否かはさておき、敬親の茶の湯は、政治と無関係というわけにはいかなかったようです。

 

平穏無事な江戸時代のままでしたら、敬親もまた、茶道具や茶の湯を嗜んだ、文化性豊かな大名の一人として後年まで記憶されたことでしょう。しかし、敬親が長州藩を率いたのは、風雲急を告げる幕末でした。本来心を静め、自己の内面を磨くためのものであるはずの茶の湯ですら、激動を乗り切るための一つの手段として用いざるを得なかったのです。