山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第096回

2012.06.15

nt毛利家0213相州警衛幕令嘉永六年(一八五三)六月の黒船来航は、日本を揺るがす大事件でした。幕府は、容易に将軍のお膝元まで侵入を許したことを反省し、江戸湾の防備体制を強化します。

 

写真は、その一環として、長州藩に、三浦半島の太平洋沿岸一帯を警備するよう命じた書類です。それまで半島を警衛していた彦根藩を羽田(はねだ)に移し、そのあとの警備を、熊本藩と長州藩に命じたものです。房総半島側の警備を命じられた、同じく外様の大藩である柳川・岡山両藩と連携させ、江戸湾入口の防衛を強化しようとしたのです。当時並行して進められていた台場築造などともあわせて考えなくてはなりませんが、なぜ、西国の、しかもこの四藩に白羽の矢が立てられたのでしょうか。いずれにせよ、江戸湾の防衛は、外国勢力を水際で食い止める名誉な役割ではありました。しかし一方で、軍事的な負担は、弱体化した藩財政を、さらに窮地に陥れる重いものであったこともまた確かです。

 

このときの家臣団派遣は、外国艦隊との戦争を想定した軍事的なものでした。よって、通常江戸への持ち込みを禁じられている大砲なども運搬しなくてはなりませんでした。また、砲台や迎撃用の陣地も築かなくてはなりませんから、そのための人員派遣や資材運搬も必要でした。したがって、運搬に要する人馬の数が、通常の参勤交代と異なり、ふくれあがったようです。これに対して長州藩では、通常と異なる緊急事態として、行軍時における、諸宿場での増人馬願いを提出しています。これは、輸送連絡用の人足や馬を、幕府が定めた公定価格(市価より安い)で雇うことができる数を増やすよう願い出たものです。長州藩の願いどおりとはいきませんでしたが、この願いは一部聞き届けられ、宿場毎に利用できる人馬の数が増やされました。

 

幕府の命令には忠実に従うとしても、負担の軽減など言うべきところははっきりと言う。こうした長州藩の姿勢が、幕末政界における長州藩活躍の一因だったのかもしれません。