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第095回

2012.06.08

120608_mouri 今回も毛利敬親に関わる古文書です。これは、時の将軍徳川家慶が天保十年(一八三九)、長州藩主毛利敬親に対して周防・長門二か国三十六万九千石余の領有を安堵した証文で、「領知判物(りょうちはんもつ)」といいます。判物とは、将軍が花押を据えた書類のことをいいます。将軍が花押を据えることはごく稀ですから、この形式の証文は、江戸時代における最も価値ある証文だったといえます。なかでも、この領知判物は、将軍が代替わり毎に、全大名の領知、すなわち土地と人民の支配権を認めるために発行したものです。したがって、諸大名にとっては、支配継続の根拠となる、最も重要な証文だったのです。

 

一般に私たちは、江戸時代の体制を、幕藩体制とよび、幕府(将軍)と、幕府から領知を与えられた諸藩が全国を支配する体制だと説明します。ただ本来、主従関係は、個人と個人との結びつきですから、将軍、もしくは大名の死と共に、主従関係は解消されます。そこで、新将軍と諸大名が、新たに主従関係を結び直し、幕府と諸藩による全国支配体制を安定的に継続させる重要な作業が、この領知判物の授受だったのです。

 

さすがに敬親の時代ともなると、この判物の発行は、かなり形式的に事が運んだようではありますが、この判物がつつがなく発行されるか否か、諸藩にとっては気が気ではなかったようです。長州藩主の毛利家には、二代将軍秀忠以降十三代家定まで、すべての将軍の領知判物が現存していますが、初期の段階では、支藩主である長府藩主毛利秀元や、徳山藩主毛利就隆が、本藩からの独立運動を画策するなど、長州藩政の根幹を揺るがす大問題が発生しています。

 

江戸時代は、一見おだやかで、波風一つ無い太平の世の中のように思われています。しかしその太平は、こうした判物などのスムーズな発行によって実現されていました。太平にかける当時の人々の努力の様子を、これから一つ一つ明らかにしていきたいと思っています。