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第094回

2012.06.01

訂_毛利家140214半5これは、紙にたった一文字「慶」と書かれた、面白い古文書です。この文書を発行したのは時の将軍徳川家慶、受け取ったのは、長州藩の藩主に就任したばかりの毛利敬親です。「慶」とは、将軍徳川家慶の名前の一字であり、敬親の名前に、将軍と同じく「慶」の字を用いることを許可したものです。このような文書を「一字状」あるいは「一字書出(いちじかきだし)」とよびます。以後敬親は、幕府によりこの一字を剥奪されるまで「慶親」と名のるのです。

 

上下関係を重んじる武家社会においては、主君の一字を自らの名前に用いることは、主従関係を明確にし、周知する大切な方法の一つでした。それぞれの家の歴史や格式によっても異なりますが、江戸幕府の場合、将軍の一字を得、それを自らの名前の頭につけることができるのは、御三家・御三卿・御家門など特に格の高い親藩や、毛利氏のように、特に格の高い有力な外様大名に限られていました。毛利氏の場合、次の藩主である世子(せいし)として、幕府から認められると、江戸城への登城、将軍への初お目見えなどをこなし、将軍から一字が与えられたようです。江戸時代初期に若干の例外はありますが、長府藩主や徳山藩主など、支藩主がこの一字を与えられることはなく、将軍からの一字授与は、前田氏や島津氏・伊達氏などと同じく、有力な外様大名である、毛利宗家当主とその世子にのみ与えられた栄典だったようです。

 

敬親は、前藩主毛利斉広(なりとお)の急死により、突如藩主となりました。そもそもは部屋住、運がよければ他家、もしくは家臣に養子として迎えられる程度の扱いの人物でした。偶然藩主となったため、ようやく「慶」の一字を与えられ、江戸城に出入りするようになったのです。それまでは無位無官、当然のことながら将軍への直の拝謁などあるはずもなく、江戸城内での作法や同席大名、幕閣などとの交際法も、付け焼き刃で身に付けたことでしょう。ただ一片の紙切れですが、この一字状を押し頂いた敬親の心境はどのようなものだったのか、推し量ると気の毒にさえ思われるのです。