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第085回

2012.03.30

120330_mouri前回に引きつづき、毛利敬親・元徳父子と英国水師提督キングとの写真です。

 

前回紹介したとおり、この写真は、慶応二年(一八六六)十二月、下関に来航したキング提督を、三田尻まで回航させるとともに、藩主敬親、世子元徳が自ら山口より三田尻まで出向いて、彼と会見したときのものです。

 

前回指摘しましたが、この写真は、案外重要な写真ではないかと考えています。単なる記念であったのか、それとも何か政治的なメッセージの込められたものであったのか、不勉強のため、私にはよく分かりません。

 

では、この写真、どのような経緯で撮影されたのでしょうか。たとえば、ガチガチの攘夷論者であった孝明天皇などは、異国人そのものを穢れた存在だと考え、彼らが神州である日本に踏み込むことさえ嫌っていたようです。ましてや並んで写真撮影など、とうてい許しはしなかったと思われます。こうした排外意識は、孝明天皇の場合、「万世一系」の皇統を継ぐ、その立場上特に強く持っていたとされています。しかし、大なり小なり、長年の「鎖国」体制に慣れた当時の平均的な日本人が、当たり前に抱いていた感情であることもまた事実です。敬親や元徳だとて、その例外ではなかったはずです。ましてや長州藩は、攘夷の急先鋒であり、唯一藩ぐるみで攘夷を実行した藩です。その藩の藩主が、どのような気持ちで、旧敵の英国提督と、しかも肩を並べて写真を撮ったのでしょうか。当時カメラはまだ貴重品ですから、敬親や長州藩の側から提案したとは思えません。英国側からの申し入れだったと思われますが、誰が、その申し出を受け入れ、敬親や元徳をどのように説得したのでしょうか。

 

たったの写真一枚だけでは、確たることはわかりませんが、興味は尽きません。何となく元徳の表情が冴えない気がするのは、はたして考えすぎなのでしょうか。