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第084回

2012.03.23

120323_mouriiこれは、わりとよく知られた写真です。向かって左に長州藩の藩主毛利敬親、右側に写っているのは、その子元徳です。中央に座っているのは、英国の海軍提督キングという人物です。

 

この写真そのものは、近代に入って、東京の写真師丸木利陽(まるきりよう)が複写したものです。元々の写真は、萩博物館の展示図録『幕末明治の人物と風景』によると、慶応二年(一八六六)十二月三十日、キング提督の乗艦、英国東インド艦隊旗艦プリンセス・ロイヤル号上において、ウォルター・タルボット・カー卿という人物によって撮影されたものだそうです。これより先の二十八日、四隻の艦艇を率いて下関に寄港した提督キングと、正式に会見するため、三田尻(防府市)に赴いた藩主敬親父子は、二十九日にキングと会見、翌三十日には軍艦に招かれ、この写真撮影となったとのことです。

 

この会見は、攘夷派の牙城として知られていた長州藩の、開国和親への転向を示す一大イベントだったと思われます。長州藩は、当時すでに攘夷の不可を悟り、交戦諸国と停戦は実現させていました。しかし、当時英国は、長州藩を自国同等の文明国家とみなしてはいなかったでしょうし、長州藩もまた、西洋流の国際法には慣れていなかったでしょう。したがって、講和条約の締結などよりもむしろ、写真は効果的だったと思われます。つまり、藩内の一般庶民すら、見ることの難しい藩主が、自らが異国人と並んで写真に写ることは、当時としては想像すら難しく、これほど長州藩の転向をわかりやすく示す出来事はなかったのではないでしょうか。

 

この写真は、近代に数多く複写されたため、現在に伝わりました。一体何のために多数複写されたのか。このとき撮影された原板は、おそらく英国に持ち帰られたのでしょうが、それは、英国で、果たしてどのように利用されたのでしょうか。たった一枚の写真ですが、ここからは、当時の複雑な政治情勢に関して、いろいろ想像をかき立てられるのです。