山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第076回

2012.01.27

120127_mouriこれは、女性用の着物で、間着(あいぎ)といいます。小袖(こそで)の上に羽織る上着の打掛(うちかけ)だけでは寒い冬の間、小袖と打掛との間に着ることから、間着と呼ばれているようです。上から打掛を羽織るためか、文様が、襟裾の部分にのみあしらわれています。

 

地は赤の綸子(りんず)で、いかにも正月にふさわしい華やかさですが、赤は魔を退ける色として、乳児の産衣(うぶぎ)などにも用いられますので、魔除けの意味合いも込められているかもしれません。また刺繍や染めで描かれているのは、籬(まがき)という垣根に、正月を代表する花木である「南天(なんてん)」です。この南天は、「難転」すなわち「難を転ずる」につうじるとして、江戸時代の人が好んで意匠に用いたものです。おそらく正月など、祝いの儀式で、毛利家の女性が着用した衣装でしょうから、ことさら縁起を担いだのでしょう。

 

ところで、この衣装はおそらく、幕末か明治初期のものだと考えられています。大名など知識階級には、西洋科学文明の一端が伝えられている時代ですから、あまりにも俗っぽい迷信めいたことは、真剣には信じられていなかったと思います。しかし、前に紹介した「正月規式」などでも、迷信に近い「縁起担ぎ」が多く行われています。また、戦国の乱世を合理性で乗り切ったはずの毛利元就ですら、張良が記したという怪しげな軍書を筆写しています。

 

はたして彼らは、こうした迷信めいた縁起担ぎなど、実際には目に見えず、効果も定かではないものを、どのくらい信用していたのでしょう。現代の私たちならば、笑って否定するようなことでも、感性や思考が異なる戦国・江戸の人たちがどうとらえていたのか、史料が乏しく、またそのようなことは古文書などにも明記しないため、必ずしも明確にはできません。しかし彼らの行動を真に理解するためには、彼らの心の内側の、こうした目に見えない「非科学的な」ものに対する考えも、きちんと理解しなくてはならないのだろうと思っています。