山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第075回

2012.01.20

120120_mouriこれは、萩焼の花瓶です。白色の釉がかけられていますが、全体にわたって貫入とよばれるひび割れのようなものが広がり、えもいわれぬ雰囲気を醸し出しています。取っ手の部分にあたるところに耳とよばれるものが、飾りとして付けられていますが、それはよく見ると、今年の干支である龍をかたどったものになっています。写真ではよくわかりませんが、かなり大きなもので、あるいは御殿広間の床飾り用だったのかもしれないと推測されています。

 

制作ははっきりしませんが、萩焼としては、比較的初期にあたるようです。こうした古いものが毛利博物館にあるのは、御用窯として萩焼の発展を支えた藩主毛利氏ならではです。

 

萩焼は、朝鮮半島から来日した陶工たちにより始められた焼物です。豊臣秀吉が強行した朝鮮出兵では、当時日本より先進地であった朝鮮王朝から、多くの文物や、技術・学問を備えた人材が日本にもたらされました。萩焼を創始した人物がどのように来日したのかじたいは、定かではありませんが、その多くは、暴力的に、強制的に掠奪されたと考えられています。戦国の日本では、敵地における掠奪・人さらいは当たり前に行われていましたから、おそらくそれと同じ感覚で朝鮮半島から人・物を持ち去ったのだと思われます。

 

朝鮮とは気候・風土も異なる日本で、故国と同じような焼物を焼くためには、現代の私たちでは想像もつかないような忍耐が必要でした。先人たちの絶え間ない試行錯誤の結果、萩焼は今日の日本を代表する焼物にまで成長することができたのでしょう。

 

戦国時代は、不足するものは貿易・掠奪など、あらゆる手段で他所から物資を持ち込む社会でした。一方江戸時代は、鎖国体制の下、創意工夫で自ら作り出す社会であったといえます。このように歴史を短絡に理解することは禁物なのですが、この萩焼は、中世と近世という異なる二つの社会の特徴をよく示しているような気がしてならないのです。