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第074回

2012.01.13

120113_mouriこの古文書は、「正月佳例書(かれいしょ)」とよび、前回の「年始規式(ねんしきしき)」と同様、正月に毛利家で行われた諸行事の次第を書き記したものです。そして、書かれた料紙や筆跡、書かれている内容などから、戦国時代、しかも毛利元就晩年頃のものと思われます。

 

内容的には、元日の家臣たちの挨拶、御小座敷式(おんこざしきしき)、十一日の連歌など、江戸時代に続く行事が、既にこの頃から行われていたことがわかる、貴重な資料だといえます。

 

ただし、前回の江戸時代後期のものにくらべ、きわめて簡潔に記述されていることは、「年始規式」との大きな違いです。その違いはどこから来るのでしょう。それは、こちらの佳例書では、殿さまのなすべき事が、ほとんど記されていないからなのです。江戸時代後期の「規式」には、歯磨きから梅干を食するなど、殿さまの行動の逐一が、事細かに記されていました。ところが、こちらでは、そうした記述はほとんどありません。記されているのは、家臣たちが、毛利氏の居城郡山城へ、いつ登城するのかということばかりなのです。

 

元日には、郡山城を囲む吉田・多治比などの衆、および中間・小者・馬屋方など、文字通り毛利氏の膝下で御用を勤めているような、譜代の家臣たちが登城しました。二日には福原氏などの親類衆、五日に外様衆、六日に郡山の麓廻りの寺家衆、八日には惣郷の寺家衆、九日に佐東衆、十日にようやく、毛利氏と同じ安芸の有力者であった国衆の使者がやってきたようです。

 

これを見ると、正月行事として、毛利氏の下に直接挨拶に参上するのは、毛利氏の本拠吉田周辺の住人に限られていたことがよく分かります。彼らこそ、毛利氏の軍事・行政・信仰を現実に支える重要な人材だったのです。元就の晩年にいたるもなお、戦国大名毛利氏の権力基盤とは、かくも狭小なものでした。正月諸行事は、彼らと毛利氏との絆を再確認するとともに、ますます強くし、その力で、領国内外の対抗勢力を押さえ込む上での重要な儀式だったのです。