山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第073回

2012.01.06

120106_mouriこれは、「年始規式(ねんしきしき)」とよび、江戸時代の後期に毛利家で行われていた正月行事の次第を記したものです。これを見ると、藩主は、まず元日の早朝に楊枝で歯を磨き口中を清め、縁起物とおぼしき梅干・山芋・大福を食すことから始まり、夜の重臣らとの宴席など、正月二十日の「具足祝い」に至るまで、目白押しの行事を次々とこなしていたようです。

 

なぜ最初に梅干や山芋を口にするのか、その後も昆布・勝栗(かちぐり)など、出陣儀式でも用いる、縁起担ぎの品を口にしているので、おそらく縁起を担いだのでしょう。その後も、お開き、牡蠣の吸物、わかめの吸物など、縁起を担いだと思われるものを次々食しています。現代の私たち同様、年の初めに縁起のよいものを食し、新たな一年を息災に過ごせるよう祈りを籠めたのでしょう。江戸時代の殿さまは、藩そのものでした。その健康は、藩の存廃すら左右する重大事でした。健康への気遣いも、今の私たちの比ではなかったと思われます。

 

また元日には、一門(いちもん)に雑煮をふるまっています。一門とは通常、毛利輝元の正室清光院の実家宍戸家、および「毛利」の名字を許された元就の子孫、六家を指します。彼らは、藩主の命を補足する書類に署判し、執行することから「加判役(かはんやく)」とよばれる、萩藩最高位の重役を交代で務める、藩主に次ぐ地位を占める人々でした。

 

藩主は、彼らにのみ元日に雑煮をふるまい、ともに食したのです。それは藩主と彼らが、藩内でも特別な地位を占めることを確認し、一致して藩運営にあたることを確かめる行為でした。 彼らは、時には、藩主と異なる意思を持ち、藩主の政策に反対することもありました。藩主にとって、大名規模の実力を持つ彼らの協賛と服従を得ることは、円滑な藩政運営に欠かせなかったのです。雑煮を食べる、一見些細な行為ですが、こうした行為の積み重ねによる、意思の疎通と協力もまた、江戸時代三百年の太平を作り上げる礎の一つだったのです。