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第068回

2011.11.25

111125_mouri この画像の人物は、戦国の名将毛利元就です。白地の大紋(だいもん)姿と、おとがいのすらりとした精悍な顔立ちが特徴の、といったところでしょうか。

 

この画像は、このたび長宗純氏のご遺族から、当館にご寄贈いただいた数ある伝来資料のなかの一点です。長宗家は、長州藩主毛利氏の一門筆頭として、長州藩内でも重きをなしていた宍戸氏に仕え、明治維新後は、萩を離れて東京でご活躍のお家柄とのことです。今回のご寄贈も、こうした縁によるもので、当館といたしましても、この貴重な資料を大切にせねばと、感謝とともに、責任の重さを強く感じているところです。

 

この画像は、残念ながら、その由来など不明なことが多いのですが、画像上部に記された、元就を称える賛文を、万延元年(一八六〇)に前明倫館祭主山県禎という人物が記していますから、おそらくその頃に描かれたのでしょう。また、表装の一文字や風帯には毛利宗家の家紋が描かれていますから、毛利家ゆかりの作品である可能性も高いと思われます。

 

江戸時代、長州藩内での対立を治めたり、一致協力を必要とするとき、しばしば元就の権威が持ち出されたことは、これまでの研究でも指摘されているところです。それは、毛利宗家はもちろん、支藩の長府毛利家・徳山毛利家・岩国吉川家、代々家老を務めた一門もまた、元就に始まる意識をそれぞれ強く抱いていたからだと考えられています。その上、「三子教訓状」に示されているように、一族団結は、始祖元就の最大の教えですから、不和や利害・感情の不一致を乗り越えて団結をめざすには、元就の権威を借りるのが最も効果的だったのです。

 

これは、幕末に長州藩が危機を迎えるとともに強くなる傾向があるようです。万延元年というのは少し早いのですが、長宗家が仕えた宍戸氏もまた、元就の娘を迎えたことから一門筆頭とされた家であり、元就への崇拝は他に勝るとも劣ることはなかったと思われます。この画像は、幕末長州藩での元就崇拝の実態を明らかにできる貴重な手がかりなのかもしれません。