山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第066回

2011.11.11

111111_mouri写真は、やや変な形ですが、銀でできた小判のようなものです。近代以前には貨幣として用いられ、古銭の世界では「古丁銀(こちょうぎん)」とよばれているようです。毛利家伝来のそれは、記録によると、江戸時代に、周防国熊毛郡の農民が自宅の裏山から掘り起こし、長州藩に献上したものです。うち一枚の裏側には「元亀元年(一五七〇)」の墨書があるので、まさに毛利氏が戦国の諸大名と激しく抗争していた時代に使用されていたことがわかります。

 

「毛利家文書」によると、毛利元就は、子息や家臣等に、石見銀山の銀を戦争以外に用いてはならないと厳しく言い残したようです。本多博之氏によると、毛利氏は、鉄砲に不可欠な火薬の材料となる硝石など、日本にない戦略物資の輸入に銀を用いるだけでなく、籠城中の味方に直接兵糧米や武器を送ることができない場合には、かわりに銀を与え、彼らの士気の維持に努めていたことが明らかにされています。まさしく銀は毛利氏の戦争を支えていたのです。

 

十五・六世紀頃、明国が銀を主体とする経済体制に移行するに伴い、日本や朝鮮を含む中国経済圏では、主に銀が国際決済通貨として機能するようになったといいます。当時日本とも交流が始まったヨーロッパもまた、基本的には銀立ての経済体制であったため、銀は世界中のあらゆるものを購入することができる、まさしく国際通貨でした。

 

戦国大名は武器・弾薬など軍事物資の購入はもちろん、自らを飾り権威を誇示するための奢侈品や、贈答品としての白糸や毛皮など、海外産の物品を数多く輸入していました。さらには、官位獲得の礼物や同盟者への挨拶など、しばしば銀そのものを贈答に用いることもありました。戦乱の世を勝ち抜くため、戦国大名はこうした出費を惜しんではいられなかったのです。

 

元就が銀の使い道を厳しく制限したのは、決して元就がけちだったからではありません。戦国大名としての毛利氏が生き残るために、どこで銀を使うべきか、子孫に道を示したのです。