山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第065回

2011.11.04

毛利家131122半5_2今年も当館恒例の特別展「国宝」がはじまりました。何といってもこの企画の目玉は、年に一度だけの雪舟筆「四季山水図(山水長巻)」の全巻公開でしょう。「画聖」とももてはやされ、教科書でもおなじみのあの雪舟が、渾身の力を込めて描いたとされる、この長い長い巻物は、やはり日本水墨画の最高傑作だとまで評価する人もいます。まさにそのとおりなのですが、じつはこの「山水長巻」、以前にも書いたかも知れませんが、謎だらけの絵なのです。

 

しかし、それにもまして謎めいているのが、雪舟その人です。これくらい有名な人物なのですが、少なくともこちらの地方の、大名や国人領主と呼ばれる上級武家が交わした書状や記録には、ほとんど雪舟に関する記述は出てきません。皆無といってよいくらいです。

 

時代は下りますが、毛利元就の孫にあたる吉川広家は、雪舟の絵を石田三成に贈ったのに、自分に三成が冷淡であったと憤慨しています。そのくらいですから、少なくともこの地方の武士たちが雪舟を知らない、ということはなかったはずです。また、取り入るため贈り物にするくらいですから、雪舟の絵はかなりよい物だという認識があったにちがいありません。

 

雪舟の記録が少ないのは、絵師という立場のせいかも知れません。現在地方で活躍した僧侶のうち、その活動がよく分かるのは、将軍や大名・国人領主の間で外交の仲立ちをしたり、彼らの菩提を弔うため、その菩提寺の住持を勤めたような人物ばかりです。当時の絵師がどのような待遇で、どのように見られていたかは、必ずしも明らかではありません。ただ、のちに毛利輝元に仕え、広島城などの障壁画制作に功績があったとされる雲谷等顔(うんこくとうがん)は、中堅の武士と同等の扱いを受けていましたが、一方で、その待遇を過ぎたものとしてよく思わない家臣もいたようです。それを遡る雪舟の時代、絵師の身分はかなり低く見られていたようです。上流武家の文書に彼の名が出てこないのは、おそらくそのせいなのでしょう。