山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第064回

2011.10.28

120907_mouriさて、既に報道などでお聞き及びかと思いますが、このたび、私どもが日々過ごしている毛利邸が、「旧毛利家本邸」として国の重要文化財に指定されることになりました。一個人の邸宅とは思えないほどの壮大な規模、使用されている材料のすばらしさだけでなく、建築技術の高さや、電灯・電信・鉄筋コンクリートなど、当時としては最先端の技術をふんだんに用いていることなどからすれば、当然といえば当然ですが、今回の指定で、この建物が、日本を代表する近代和風建築であると、改めて認知されたことは、大変喜ばしいことにちがいありません。

 

しかしこの「旧毛利家本邸」、まだまだよく分からないことだらけなのです。たとえば、近代毛利家の本拠である本邸が、なぜ東京ではなく山口県に作られたのか、その経緯すらはっきりとは明らかになっていないのです。明治政府の憲法発布にならい、明治二十三年(一八九〇)に公爵毛利家で作られた、華族の憲法ともよぶべき「家憲(かけん)」には、東京は常住の地とはせず、山口県下において土地健康に適し、海陸便利の所を選定すべしと、明記されていますので、それに従った結果であることは明らかです。

 

毛利邸の建設経過をくわしく研究している福田東亜氏によると、毛利一族の山口県内居住を押し進めたのは、維新の元勲として、維新後の毛利家運営に影響力をもっていた井上馨であったといいます。また、アメリカへの留学経験も持ち、井上に協力的であった吉川重吉(ちょうきち)は、旧領主である毛利家が、イギリスなどの地方に拠点を置く名望家層と同じく、故郷に拠点を置き、地域社会の安寧と繁栄に努めるべきだという考え方をもっていたようです。

 

これらの考え方から毛利家が山口県下に本拠を定めたのは間違いないようです。しかしその後、東京一極集中が進むことで、こうした考え方はどう変化したのか、毛利家は山口県下でどのような役割を果たしたのか、考えれば考えるほど興味が尽きることはありません。