山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第063回

2011.10.21

111021_mouriこれは、鐔(つば)といい、刀剣の柄(つか)と刃を隔て、戦いの時には刀を持つ人の手を保護するための装備です。この鐔は意匠的にも面白く、周縁は節くれ立った竹を丸く廻らせ、その内側に、竹の枝や葉を透かし彫りで表現しています。

 

金の象嵌(ぞうがん)で鐔の表裏に記された銘文によると、毛利元就の依頼により、赤松政秀(あかまつまさひで)が刀匠長船清光(おさふねきよみつ)に作らせたものだとわかります。そう、これは、前回紹介した清光作の打刀とともに作られた拵の鐔だと思われるのです。しかしこの鐔は、何故か永らく毛利家の許を離れていました。明治になり、毛利家に献上される時に添えられた巻物によると、この鐔は、永禄四年(一五六一)元就が、三男小早川隆景の居城を訪問したとき、元就から隆景に譲られたようです。その後、隆景の家臣に与えられ、小早川家の断絶後は行方知れずとなり、明治に入って、再び毛利家の有に帰したというのです。

 

永禄四年における元就・隆元父子の隆景居城訪問は、毛利氏の有力な与力であった熊谷信直や平賀広相・天野隆重ら安芸国衆だけでなく、備後国衆の渋川・有地・渡辺・古志・安田諸氏らも同席し、十日以上も滞在する大がかりなものでした。岸田裕之氏は、この訪問を、その時期から、尼子氏の居城月山富田城の総攻撃に関係があると推測されています。おそらくそのとおりで、長期の戦いが予想される攻城戦に先立ち、毛利軍の中核を成す彼らの結束をめざして訪問がなされ、宴席の場かどこかで、厳島戦勝の記念品をあえて衆目の前で隆景に与えたのでしょう。それは、毛利氏と芸備国衆が一丸となり、陶晴賢を撃退した記憶の品であり、今回もそのときと同様に一致団結することを、隆元・隆景以下諸将に期待していたと思われるのです。

 

本来ならば、記念の品として、代々の家宝にもなりそうな逸品を、実子とはいえ惜しげもなく与えた背景には、元就ならではの深謀遠慮があったと考えるのはどうでしょうか。