山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第062回

2011.10.14

毛利家111014これは、毛利元就が作らせた刀の、茎(なかご)といい、手で握る部分を拡大したものです。

 

彫られた銘によると、備前国(岡山県)の刀匠長船清光(おさふねきよみつ)が、毛利元就の依頼を承けた龍野城主赤松政秀(あかまつまさひで)の命令により制作したものだとわかります。裏に記された紀年銘から、天文二十三年(一五五四)八月に作られたこともわかります。

 

この年の五月、元就は、それまで従っていた大内氏に反旗を翻し、厳島など大内方の拠点を占領しています。毛利氏にとっては、大内氏からの自立を目指した、まさしく乾坤一擲の大勝負でしたが、最大の懸念は、北方の尼子氏の動向でした。すなわち、毛利氏が大内氏との決戦に全力を注いでいる間に、尼子氏に攻撃されたらどうするか、ということでした。これに対して毛利氏は、山内氏など備北の諸領主を待機させ、尼子氏の南下に備えるとともに、配下の武将井原元造を備中・備前に派遣し、反尼子勢との連携を模索させていたようです。

 

龍野を拠点とし、東備前・西播磨を勢力圏に収めていた赤松政秀もまた、南下を試みる尼子氏と対立関係にあったようです。この刀は、その時期からして、元就の連携要請に対し、赤松政秀が、それを受諾した証として作られた可能性が高いように思われます。

 

その後、毛利元就が厳島で陶晴賢(すえはるかた)を破り、大内氏を打倒することはよく知られています。厳島合戦といえば、元就による奇襲が注目されがちです。しかし、華々しい勝利の背景に、大国大内氏との決戦に備え、限りある毛利氏の全戦力を投入して、少しでも互角の戦いに持ち込むため、元就があらゆる外交手段を講じていたことはあまり知られていません。

 

厳島合戦の勝利は、元就の幅広い視野がもたらしたものなのです。それは、大内義興や尼子経久などの、京都やアジアまで視野に収めた幅広い外交を目の当たりにした元就が、彼らの手腕を学んだ結果だと思われますが、そのあたりのことは、まだまだ今後の解明が必要です。