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第060回

2011.09.30

毛利家110930この刀は、毛利元就所用とされている脇差(わきざし)です。菖蒲造(しょうぶづくり)といい、横手筋(よこてすじ)という刀身の地の部分と切っ先とを区別する線がなく、鎬筋(しのぎすじ)とよばれる刀身の鎬(しのぎ)と刃を区別する線が、切っ先まですっと伸びているのが特徴です。また、太刀の差添えとして用いることや、馬上での活用を念頭におくためか、手で握る部分の茎(なかご)は、大人の拳くらいしかありませんし、磨(す)り上げているとはいえ、刀身自体も六〇センチ程度と、短いことも特徴といえるでしょう。

 

この刀、特に銘などはないのですが、備後国の三原物とされています。三原物の特徴がよく出ているとされていますし、元就のころの特徴もあるようですから、この初伝は事実を伝えていると考えられています。

 

三原といえば、元就の三男小早川隆景が、「浮城」とも呼ばれ、水城の傑作として名高い三原城を築いたことで知られています。そのことからも明らかなように、桃山時代の三原は、小早川氏の重要な拠点でした。ただ、どうもそれは隆景の時代からのようで、隆景以前の三原は、小早川氏だけでなく、木梨杉原氏など、周辺の国人領主が割拠する地だったようです。毛利氏もまた、京都に送る年貢米の積み出しを、三原で行っていたらしく、毛利氏の拠点か、あるいは懇意にする商人もいたようです。当時の三原は、塩や周辺諸荘園の年貢積み出し港として賑わい、刀鍛冶なども多く居住する、瀬戸内でも有数の港町だったのです。

 

関連する史料が乏しく、はっきりとは断言できないのが残念ですが、内陸部の吉田荘を拠点とする毛利氏にとって、三原は、京都へとつながる瀬戸内海への窓口として、軍事上・経済上重要な土地だったと思われます。元就もまたこの拠点に早くから興味を抱いていたのでしょう。元就愛用のこの三原物の脇差は、毛利氏と三原との密接な関わりを示す貴重な資料なのです。